勤続6年目で休職した国家公務員が休職のあれこれ話します

霞が関で自分を見失った公務員の休職日記です。

病休突入ほやほや期がいちばんツラかったよっていうおはなし

こんにちは、けばうです。

 

前回は、どうにか診断書を提出し、ようやく病休に入ったところまでの話でしたね。

さて今回は、病休に入りたてのころのおはなしを備忘録的に記したいと思います。

 

当時の私は、「病休を勝ち取るまでこんなに長くて険しい道のりを歩んできたのだから、もうあとは、とにかく部屋でゆっくりして、好きなことをして、おいしい物を食べて...」

 

なんて想像していた訳ですが、そんな素敵な過ごし方をできたのは最初の2日だけでした。

というのも、私自身が休養期間はこう過ごさなきゃいけないというマインドセットを無意識に持っていたようで、2日間はある程度気を張って生活できていたのですが、3日目で限界を迎え、そんなマインドセットはもろもろと音を立てて崩れ去りました。

 

では、ひとまず病休3日目からの私の生活スケジュールを記します。

病院で処方してもらった睡眠導入剤を服用したにも関わらず、1秒も眠ることができないまま朝日を拝む。

あぁ...朝だ....とは思いつつ、寝ることもできないままぼんやり外を眺める(2時間)。

いつもなら出勤しないといけない時刻に何もできずベッドの上で迎えた事実に突如悲しくなり、大大大号泣。

泣き疲れて寝落ち。

目が覚めるとあらゆるネガティブな気持ちに苛まれ、涙が溢れる。

気絶したように寝落ち。

目が覚めると時刻は0時前。

夜は特にネガティブな気持ちに包まれて、布団に入るも一睡もできずに朝を迎える。

以後、無限ループ

 

以上です!!!!!!!

そして、私の場合はこのような生活が5か月ほど続きました。笑

 

そう、この生活スケジュールをもって、私が何を示唆しているかと言いますと、

病休に入る=まったく何もしなくていいい時間ができる

 

つまりは、

自分と向き合わなければならない時間(考え込んでしまう時間)が無限に続く

ということです。

 

病休直前までの生活を振り返ると、残業や早朝出勤が続いていて、良くも悪くも落ち着いて何かに思いふけるような時間がなかったのです。

考え込む時間が無限にできてしまった私は、休養で24時間フリーになったことが仇となり、働いていた時よりも自分を責める時間が増えてしまい、症状が悪化し続けました。

 

実は、診断書を貰った時に、主治医の先生からこう伝えられていたのです。

「今のあなたは、すでにぶっ壊れているエンジンを気持ちだけでフル稼働させて、走っていた状態です。エンジンを切っても、熱が冷めきるまで時間がかかるように、休み始めから少しの間は、働いていた頃の名残りでアドレナリンが出続けます。しかし、その時期が終わると、数か月間は病状が悪化します」

 

まさに予言どおり......笑

 

ただ、先生は付け足すようにこう教えてくれました。

「心配しないでください。それが一般的な反応であり、症状が治っていく過程における、いわば第一段階です」

 

今となっては、先生の言うとおりだったなぁなんて思っていますが、当時はそんな余裕もないくらいネガティブな感情に憑りつかれていて、まさにパニック状態でした。

(実は、のちに適応障害だけでなく、パニック障害も患いました)

 

どうしてこんな散々な状態になっていたのか、ざっくりと当時の気持ちを書き出してみると

  1. 自ら病休を選択し、順調すぎるピカピカの職務経歴を自分の手で傷つけたという自己否定感
  2. 休んだことで職場に迷惑をかけているという罪悪感
  3. 数か月前に大出世だと激励して送り出してくれた前職場の同僚たちに対する恥ずかしさ情けなさ
  4. 適応障害になって精神安定剤睡眠導入剤を飲んでいるという状況を受け入れられないことへのもどかしさ
  5. 症状が良くなるにはどれくらい時間がかかるかわからないという漠然とした不安感
  6. 上司から報復を受けるんじゃないかという意味不明な恐怖
  7. 人間的な規則正しい生活を送らなければならないのに、ベッドから起き上がることさえできていないという怠惰な自分への否定感
  8. 一般人なら当たり前にできること(仕事)が、自分にはできずにそこから逃げてしまったのではないかという挫折感

とまあ、大きく分けるとこんなところでしょうか。

これを読んでくださっている皆さんはいくつ当てはまりましたか?笑

 

今こうして当時の気持ちを客観的に振り返ると、自分への期待がとても高かったことと、自分が置かれた状況を受け入れられていなかったことがうかがえます。

 

が、まあこんなことを言えるようになったのは約1年半が過ぎた今がギリギリでして、

当時はもう生きるのが苦しくて苦しくて、それはもう筆舌に尽くしがたい日々を過ごしていました。

 

今となっては、どれもすべて、自分だけで考え込んでどうにかなる問題ではないことは明白なんですがね。笑

 

と、ここまでが病休突入ほやほや期いちばんツラいよというおはなしでした。

 

私がこの記事で伝えたかったことは、

病みながら仕事している状態から急に休んだら、それまで無理していた分のツケがちゃんと返ってくるよ。思ったよりキツい戦いになるけど大丈夫、問題ないよ。

ということでした。

 

病休に入りたてで何もかもが不安になっている誰かに届きますように。

 

 

けばう

 

 

 

 

 

診断書を提出した日のおはなし

 

こんにちは、けばうです。

 

前回は無事に診断書をGETしたところまでをお話しました。

さて今回は、幹部に診断書を提出した日のあれやこれやを書きます。

 

病院を出たのがお昼頃。

 

診断書が発行される=業務命令で強制休みとなるので職場に来てはいけない

というのが、当たり前だそうですが、

(私は教えてもらうまで、全く知りませんでした)

 

「手渡しで私に来い。顔を見せろ」という出向先の幹部からの連絡があり、

訳も分からずに溢れる涙をスーツでぬぐいながら、霞が関に向かいました。

 

ちなみに、涙で霞まくっていたその道中の景色はなぜか鮮明に覚えています。

少し体を動かして気分転換にでもなればいいと、日比谷公園の中を歩いて向かおうとしたのが、間違いでした。笑

 

ブラックオーラをまとった自分の存在など滅されてしまいそうな快晴の下、

テニスをしているご婦人たち、周りの青々とした木々や芝生、楽しさを全身で表現しながら走り回る犬。

 

私は、ここにいる生きとし生けるもの全てのネガティブな要素を背負わされているのではないかと思うほど、周りがきらめいていたのです。

 

その生命力に圧倒され、歩く力もなくなった私は、缶コーヒーを買って縁石に腰かけて20分ほど休憩しました。

(その間も涙はボタボタ……)

 

話は戻り、

庁舎に着くと、ロビーのソファに座っているよう指示があったので待っていると、幹部がやってきました。

事情を話し、診断書を手渡し、これまでの些細な出来事から随所に感じた違和感まで、簡潔に伝えました(早くこの建物から出たい)。

 

すると幹部は、「これまでこうしたことがあったのに、一つも気づけずに申し訳ない。診断書が出るほど追い込まれていたなんて知らなかった。お前の主張はよく理解した。だから、一旦この診断書は俺が預かっていいか?」と。

 

(私の頭の中)「……???????????」

 

続けて幹部は、「直接●●(パワハラご本尊)から話を聞いて、お前が抱えていた問題を解決できるよう対応しようと思う」と私の診断書を手に持ったまま言うのです。

 

(私の頭の中)「え?休めないの????…診断書は??? え??????」

 

こんなことを真面目な顔で言ってくる幹部も、何を隠そう出向者。

自分が出向先でパワハラ案件の片棒を担いでしまってはこの先どうなるかは明らかです。

保身丸出しの発言に冷静に驚きました。

 

ただ!!

私に診断書を取ってこいと言ったあの先輩は、こうなることを事前に予想していたらしく、事前に入れ知恵してくれていたのです。

忘れないうちに書き留めて、みなさんにシェアします。

 

  • 診断書が発行された=もはや職場がある建物にさえ入ってはいけない(自宅療養が業務命令のため)
  • 部下から診断書を提出されたら、それは絶対的効力があるので、受取拒否なんてもってのほか(そのような行為が発覚した場合、管理者が罰を受ける)
  • そもそも、出向元>出向先という関係があるので、大事な人材を出向先が潰したということになると、立場が悪くなるのは出向先の上司や幹部

 

出向していない方でも、上2つは覚えていて損はないと思います。

 

満を持して、入れ知恵刀を鞘から抜くことになった私は、その武器でどうにか幹部に応戦し、なんとかその日から病気休暇に入ることができました。

 

(そもそも普通はすんなり受け取って貰えるはずなんですがね……笑)

 

幹部と解散し、庁舎を出た瞬間。

先ほどまでとは全く異なり、すがすがしい気持ちで満たされ、真っ黒でズタボロだった心に春風が吹いたような心地になりました。

 

傷つきまくった心を修復していくのがどれだけ大変で長い日々かなんて、その日の私は微塵も予想していなかったんですがね。

 

とまあ、ここまでが診断書を提出した長い1日でした。

 

 

さあ、これから長い闘病?療養?生活が始まります。

最後まで読んでいただきありがとうございました。

 

けばう

 

仕事がんばるマンだった私が診断書を貰うに至ったきっかけ

こんにちは、けばうです。

 

今回は、診断書を貰うまでのあれやこれやを書きたいと思います。

(n=1の経験に過ぎないので、あくまで参考程度でお願いします)

前提として、私は、前回の記事に少し記したとおり、超絶ポジティブな実直系働きマンでしたので、自ら休むことを決断できませんでした。

 

そんな私が診断書を手にしたきっかけは、ある日、めずらしく定時上がりしようとデスクを片付けていたところ、当時の直属の上司(以後、パワハラご本尊と呼びます)に個室に呼び出され、ドアをしめられたと思ったら、そこから3時間の大説教を喰らったことでした。

 

この日に至るまでにも、私自身「???」と感じるような指導を受けたことが多々あったのですが、

バカ真面目に、「これも期待を込めて強めに指導してくれているんだな。次はがんばろっと」なんて辛い気持ちを押し殺して、パワハラご本尊の指導をポジティブに受け取ってどうにかやり過ごしていました。

というよりも、出向中の身でしたので、出向先>出向元なんだろうと勝手に解釈し、「私は文句が言えない立場なんだ!」と意識して行動していました。

 

話は戻り、パワハラごご本尊は、どうやら説教する理由なんかはどうでもよかったらしく、その日はとにかく私を叱責したいという気持ちが全面に溢れており、内容も私に限ったことではないものばかり。

「いつもとは明らかに違う。これは指導ではなく、明確に憎悪の気持ちを持って、優位な立場から悪意ある叱責をしている」と確信しました。

また、叱責されている間に、これまでのあれやこれやを思い返すと、どうも全部おかしい…ということに気が付き始めたのです。

 

しかし、気が付いた時にはすでに時遅し。

今置かれている状況といえば、個室でドアが閉められていて、周囲の目は届かず、助けも呼べないうえ、パワハラご本尊とマンツーマンで圧倒的地位の差があります。

 

この無力な状況に抗う術もなく、ただ流れる涙をスーツの袖でぬぐいながら、3時間を過ごしました。

 

後日、幹部からの事情聴取を受けたご本尊は、あいつが憎かったからやりましたと自白したようで、幹部が謝罪に来ました。

謝るのはお前じゃねえ!!!謝罪なんかより私の失ったキャリアを返せ!!!とは今でも思います。

 

自席に戻り、何か自分の器がいっぱいになって崩壊した音が聞こえたころには、無意識に出向元の先輩に内線をかけて「もう無理です…たすけてください…(爆泣)」と助けを求めました。

電話してすぐに、先輩が話を聞いてくれて、これまでの違和感、今日の出来事、幹部たちの対応、私が出向している立場だから遠慮して黙っていたことを伝えました。

すると、私の話を聞いた先輩は「お前はよく頑張った。もうそれ以上は頑張らなくていい。こんなに壊れるまで頑張る必要はない。明日は休んで、すぐに病院で診断書をもらってこい」とだけ声をかけてくれました。

 

基本2年とされている出向期間を早めて帰ってくるなんてありえないし、もし帰ることになったら私の公務員人生はもう終わりだと思っていたのですが、その言葉を聞いて、ピンと張っていた色々な糸がすべて切れたような感覚になりました。もういいんだと。

 

そうして、翌日早朝から心療内科に行こうと準備していたのですが、ご存じのとおり、心療内科は基本完全予約制。特に初診となると、飛び込みで診察を受けられないのです。

 

職場からは出勤しなさいと連絡が入り、病院にも行けないので、結局号泣しながら満員電車に乗り、涙を終始垂らしながらデスクで仕事をこなし、1日を終えました。

今考えると、明らかにメンタルがぶっ壊れていますね…

心の糸が切れた後は、通勤も仕事もあり得ないくらいツラくて、苦しかったです。これまで、どうやって乗り切ってきたんだろうかと思うほどでした)

 

そうして、3時間の個室説教から2日後、ようやく病院にたどり着きました。

 

病院では、自分の職業、業務内容、置かれている状況、こうなるに至ったきっかけなどを先生に聞かれたとおりに伝えました。

実は、それまで心療内科に通院した経験がなかったので、心の病ってどうやって診断するんだろうとか、先生に何を聞かれるんだろうとビビッていた節があったのですが、行ってみるとなんともあっさり終わりました。

お会計を終え、いざ診断書を受け取ると、「適応障害」とはっきり書かれていて、ショックを受けたのを覚えています。

 

とまあ、ここまでが診断書を貰うまでのお話でした。

このあと、もちろん診断書を上司に提出しなければならないのですが、なぜかひと悶着ありました。

(おそらく普通はありません)

 

けばう

自己紹介 と このブログを書き始める理由を少し。

はじめまして。けばうと申します。

わたしは、★省所属の国家公務員一般職6年目で、来年度からは主任級に上がる年次です。

地方から本省に出向し、霞が関で勤務していたのですが、題名にもあるとおり、1年ほど前に出向先の職場でパワハラに合い、現在休職中の身分です。

また、先月には1年間の休職期間が満了し、今月からはついに無給の休職期間に突入しました。

 

さて、休職する以前がどんな様子だったかというと、キャリアアップのために早めに出向経験を積もうと自ら出向を希望するほど、やる気に満ち溢れた公務員でした。

(もし、こんなことになるなんて微塵も思っていない希望に満ち溢れた当時の私にアドバイスできるなら、「キャリアアップは二の次でいいから、やめとけ」の一言を送ります)

 

話は戻り、出向先の本省でも、そのやる気はそがれることなく、毎日長時間の残業もどうにかこなしながら、「すべては自分の糧になる!」と超ポジティブシンキングで乗り越えるストロングスタイルを武器に、一生懸命働いていました。

 

そんな真面目働きマンが、急に休職を言い渡されるとどうなるか。

 

右も左も前も後ろも、今日のことも、明日のことも、何もわからない、考えられない状態で、日常生活がままならないのです。

 

今まであれだけ自分の時間が欲しい、寝たい、ぼーっとYouTubeを見たいと思っていたにも関わらず、

いざ休職となると、業務から離れている不安感、同僚たちへの罪悪感、社会の流れに取り残される不安感に取りつかれて、好きなことをするどころか、自分を失うような感覚に陥ったのです。

 

こうした気持ちは、休職期間を1か月過ぎたころから、より一層強くなりました。

「休職期間を、どうやって過ごせばいいのか」

「職場に迷惑をかけた罪悪感をどのように昇華したらいいのか」

「こんなに休んでしまって自分のキャリアがこれからどうなってしまうのか」

 

今覚えば、自分の頭でいくら考えても答えは出ないので、ただぼーっと心が落ち着く過ごし方をしていればよかったのですが、当時はこうした不安感が24時間付きまとい、在職時以上に不眠症になっていました。

 

そんな目の前真っ暗状態で、日常生活もままならない中、自分の心の安寧を求めて、ただひたすらに読み漁っていたものがありました。

 

それが、同じ公務員の方が書いた休職経験談のブログです。

 

初めは、自分と似たような肩書きの方だけを選んで読んでいましたが、絶対数が少なかったため、徐々に地方公務員の方のブログなども読むようになりました。

 

当時読んでいたブログの存在は、確実にあの頃の私を救ってくれましたし、

辛い状況の中、「少しでも何かの役に経つかもしれない」と経験談を書き記してくださった先人たちの心意気には、感謝の気持ちしかありません。

 

このような経緯から、私自身ようやく休職期間に慣れてきて、冷静に当時を振り返れるようになった今、

いつの誰にどれほど読まれるかはさておき、備忘録程度にこれまでの経験を書き記そうと思います。

 

意図せず休職状態になってしまった方や、現在休職中でこれからどうなっていくのか不安に感じている方が、少しでも気が楽になるようにと願っています。

 

けばう